ハンディキャップ

私は今から数年前に初めて手話に出会いました。

手話の面白さや良さに気付かされることを通しながらも、一方で手話そのものだけでなく、その背景についてもたくさんの発見をしました。

さて、私は当時、手話のもの珍しさやかっこよさに惹かれていました。知らない手話を知るのが楽しかったのです。

 

ある日、私が手話を学んでいた先生に「聴覚障がい者の集まる飲み会があるから一緒に来る?」と誘われて、少し不安でしたが、参加することにしました。そこでは、20人くらいの聴覚障がいをもつ人たちが集まっていました。

恐る恐る自己紹介をしたのは覚えていますが、そのあとのことははっきり言って覚えていません。とても緊張していた事もありますし、目の前、隣の席、奥の席でも繰り広げられる手話の会話に目がまわってしまい、衝撃を受けたのです。

その場の雰囲気や話題をその場の方は皆さん共有し楽しそうに盛り上がっているのですが、私は手話で何を言っているのか分からなかったし、その場で何が起きているのかもわからず、私一人だけが取り残されているように感じたのです。

 

「ハンディキャップ」と言う言葉があり、みなさんも知っていると思います。およそ、社会には車椅子の人もいるし、目の見えないひともいるし、妊婦さんもいるし、赤色と緑色が同じ色に見えてしまう人もいるし、背の低い人もいるし、自分の言いたいことをうまく相手に伝えられない人もいます。私は、手足が使えないことや目でものを見られないことや、耳が聴こえなくて音を知らないことや、赤色と緑色の区別ができないこと、背が高いことや太っていること、それ自体がハンディキャップなのだとは思いません。

ですから、単純に「気の毒だ」とか「かわいそうだ」と決めつけることは、良い人間関係やコミュニケーションを考える時に、可能性を狭めてしまうと私は思います。

 

例えば、車椅子の人は階段だけしかなかったら一人で二階に上がることが困難です。赤と緑の色を識別できないとき、信号機は命に関わる危険があります。背の高い人は、本棚の最上段にある本を取ることができますが、背の低い人は自力で取ることは困難です。だから、数年前の私が飲み会の場で経験した時のように、「ハンディキャップ」というのは、決して誰かが元々もっているものだけではなくて、生きている社会の中、人とのかかわりの中で生ずるものなのだと思っています。

 

では、耳が聴こえない場合、何が聴こえないのか、どんな時に不安になるのか、どんなことで困るのか、またはときには、耳が聴こえないから得することもあるのかもしれません。

一方、私たちは、耳が聴こえる人は耳でどんな音を聞いているのか、何に音があって音が無いのか、それを改めて考えること、知ろうとすることを忘れないで大事にしたいと思います。

 

知らないことに興味をもつこと、知ろうとすること、訊くことは全く気まずい事でも、恥ずべき事でもありません。特に、今は情報化社会で知ろうとさえすれば、様々な情報を知ることができます。

 

皆さん、試しに一度普段見ているテレビの音を消してみてください。