『電車の中の偶発的出来事』

ふっと車窓に目をやると、濃い黄色が飛び込んできた。

見慣れない不動産会社のひときわ派手な看板だった。

 

気が付かなかったのだが、走っていたはずの電車は停まっていた。俺はイヤホンで流行のアイドルグループの最新曲を無限ループで聴いていたし、それに視線は手元の液晶画面に夢中だったから、電車がいつ停止したのか気づかなかった。

変だった。電車は何人かを降ろし、新たな乗客をその中に迎え入れても、すぐに動き出すつもりはないようだった。なぜかと言うと、その場所が駅ではないからだった。

 

俺はイヤホンをはずし、車内の様子を見渡した。明らかに駅と駅の中間地帯、いつもなら通過するはずの場所で、そう、ちょうどこの先は橋を渡るはずだ、その場所に俺たち乗客はとどまっていた。ほどなくして、車掌からアナウンスが入った。

「信号トラブルのため・・・点検の・・・お急ぎのところ・・・」

どうやら電車は予定外に停止したということだった。ポイント故障だかなんだかで、点検をするから、ご丁寧に「少々停止いたします」と仰せである。

 

俺は、またイヤホンをつけた。そして、再びスマートフォンを手に取ろうとしたその時、声がした。声がしたのだ。その声の主は、俺の対面に座っている女性だった。はっとしたがすぐに、その声は多分「すみません」と発せられたのだと推理できた。顔は知らない人だ。ボックス席の対面シートで、たまたま目の前に座った俺に突然に話しかけるとしたら、例外なく「すみません」しかないだろうと合点がいったのである。

 

40代か50代か、主婦風のその人は、明らかに緊張しながら、手のひら大の小さなノートを俺に差し出した。罫線を無視して斜めに書かれた字は、確かに【どうして止まれますか?】と書かれていた。・・・?。一瞬だけ訳が分からなかったが、その人は耳を指差して両手でバツ印をつくって見せた。俺は、この人は耳が不自由な人なんだ、と分かった。しかし、だからと言ってどうしたらいいのか。俺は、とりあえず女性からネームペンを受けとって、そのノートに【信号の故障で少し電車は停まるそうです】と書いた。その人は、手話?身ぶりと声で俺に、「教えてくれてありがとう(多分)」と言った。そのまま、俺は2つ先の駅で降りるまで、頭の中がもやもやして目の前のその人に気を取られ、色々なことを頭で考えていたから歌が耳に入らなかった。次の日、俺は久しぶりの友人に連絡をとったのだった。そいつとは大学を出てからは会うことがなかったが、耳の不自由な人の支援をする仕事をしていると聞いていた。俺は、昨日のことを包み隠さず話して、もやもやを解消させたかった。30分くらい話しただろう。あまりにいろいろと初めて知ることが多かった。細かいことは覚えていないが、そいつは、アナウンスでは聴覚障害者に情報がないことや、大半の人は日本語の読み書きが苦手なこと、さらには、せっかく昨日俺が書いた文言についても、「『少し』ではなくて、10分とか1時間とか知りたいのではないか」などと熱く語ってくれやがった。

 

でも、結局俺が思ったのは、耳の聞こえない人はきっと外国人のような立場で生活を送っているのではないか、ということだった。

そう思うことができたとき、ブラジル人を母にもち、顔が濃いからという理由で小さいころからいじめられてきた俺を、あれだけ多くの乗客のなかでどうして選んだのか、決して偶然ではないように思えて、俺は嬉しくなった。