処方箋はただの紙切れ?

「目が見えにくいのなら、眼鏡かコンタクトを買った方が良いんじゃない?」

 
視力が低下したとき、眼科から処方箋を受け取って眼鏡を作れば、多少は見えるようになると思います。
しかし、このときに「処方箋」がどういう役割を果たすかを、私たちはどのように理解してきたのでしょうか。ここでいう私たち、というのは、日本語を生活言語として使う人のことを指しますが、
ろう者の中には、処方箋を「ただの紙」として持ち帰ってしまう人もいます。
 
これまでに出会ったろう者たちの中には、日本語が理解できないだけでなく、「ただの紙」がどういう役割を持っているかについて教わる機会がなかった人がいます。
 
自分の力でやってきたのに、「ただの紙」の理解ができないなんて、おかしな人ではないかという意見もあります。
確かに周囲の行動を見ていれば、処方箋をどのように扱うかは一目瞭然かもしれません。
聴者は、耳から入ってくる情報と、目から入ってくる情報を組み合わせれば自然と理解できると思います。
 
しかし、耳から入ってくる情報が欠けていたら、今と全く同じような生活ができていたでしょうか。
目から入ってくる情報だけで行動していたとしたら、今と全く同じような生活だと断言できるでしょうか。
 
聴こえないということは、単に「眼鏡をかければ、見えるようになる」のと同じように、「補聴器をつければ、聴こえるようになる」わけではありません。
昔から、聴こえない人は「見た目、聴者と変わらないから理解しにくい」と言われていました。
 
私も耳が聴こえませんが、眼鏡やコンタクトと同じように、「耳が聞こえにくいのなら、補聴器か人工内耳でもすれば、聴こえるようになるよ」と言われたことがあります。
 
確かに今、世の中には医学的技術の進歩により補聴器、人工内耳を経て聴力を活かす人もいます。
聴力を活かすことは、本人にとって必要なことだからこそ活用しています。
 
これは最も大事なことです。
なぜなら、聴こえない人の中には残存聴力があり、最大限に活かすことにより、少しでも耳から入る情報と目から入る情報を組み合わせて生きていく必要があるから。
 
一方で、私のように全く聴こえない人もいます。耳から入る情報がほとんど得られない人もいるのが事実です。残存聴力を活かせないのなら、目から入る情報をより多く取り入れれば良いのではないでしょうか。
 
聴者、ろう者、難聴者、それぞれの立場の人が、聴力、言語の違いを理解し合い、お互いが気持ちよく過ごせる拠点として築きたいという思いからスタートして、地域活動支援センター手楽来家として今月で3年目に入りました。
皆様のおかげで、日々にぎやかなスペースになっています。今後は、より力を入れて、聴覚・言語障害者にとって活用しやすい福祉サービスを提供していきますのでどうぞよろしくお願いいたします。