ろう者は、障害者の中の「外国人」

大きな船も、遠くから見ると小さい
大きな船も、遠くから見ると小さい
ある和菓子屋さんで、ろう者のお客さんが「あのー、これください」と発した。その声を聞いて「あ、外国人!」と判断したのか、店員さんは即座に中国語で書かれたボードを差し出した。
 
ろう者はびっくりした様子で、手を振る(いいえ、違いますとでも言いたげに)。しかし、店員さんには伝わっていなく、「あら?この人、中国人じゃないかも」ということで英語のボードが差し出された。
 
そのろう者は英語が読めるので、自身が聴こえないことを伝えないまま、ボードに書かれた英語に対して「Yes」という意味でうなずいた。
 
店員さんは、そのときに、通じた!と満足感に浸り、お土産を渡し、ろう者は黙ってその場を立ち去った。
 
きっと、この店員さんはそのお客さんがろう者だったことに果たして、気付いていただろうか。
 
ろう者は、目が見えない人や車椅子に乗っている人と比べると、見た目では分かりにくい障害者といわれています。
しかし、ろう者は果たして、自分のことを「障害者」として見ているのはどのくらいいるのでしょうか。
 
多くのろう者と接していると、聴覚障害者とはいえ、自らのことを「障害者」と称する人は少ないような気がします。手話だけを見ると、「壊れる」の手話が「障害」になっているので、ネガティブなイメージを払拭するためにも、自分自身が障害者である、と話すには抵抗があるのかもしれません。
 
また、「ろう者」という言葉の方がすんなりと現実味を帯びた手話表現になっているので、すっきり感があるのかもしれません。
 
社会の中で言われている障害者とは、どのような人たちかを考えたとき、一つの基準になっているのは、障害者手帳所持者である、ということです。
障害者の統計データを見てみると、手帳所持者の数字が出ています。
 
ろう者も、障害者手帳を持っている人はいますが、「手帳」「割引手帳」という言葉で言う人が多いような気がします(わざわざ、しょうがいしゃてちょう、と言わなくても済むからだと思います)。やはり、障害者、という言葉に抵抗感を持っていることを意味しているのでしょうか。
 
手話という、日本語とは別の言語を話す立場だからこそ、障害者というよりは、民族のような意識で生活しているとも考えられます。
 
他の障害者は、音声で話すことができて、かつ耳で相手の話を聞くことができる人もいます。しかしながら、ろう者はそれが出来難い状態に置かれやすいため、手話や口話、筆談等、音声に限定されないコミュニケーション方法をとっています。
 
そのためか、障害者の中でもしばしば、外国人のような扱いを受けます。
例えば、健常者も障害者も多く参加するイベントに、ろう者が参加すると、手話通訳や要約筆記がなかったりします。中には、少しでも手話ができるボランティアを通訳者扱いにするところもあります(そうせざるを得ない?)。
 
日本人が、海外に出かけ、現地の人が多く参加するイベントで、カタコトで音声通訳されたら、どんな感じでしょうか。
 
リアルタイムで笑うことができなかったり、流れがいまいち掴みにくくなったり、意見を出すことすらもできなくなると思います(ただ、ポジティブな性格の人であれば、どんどんと前に行けるかもしれないですね)。
 
障害者の中でも、外国人のような立場にならざるを得ないろう者にとって、聴者による障害観は、単純に「聴こえない人」ではなく、それを通り越した先にあるものであってほしい、と無意識に願っているかもしれません。
 
それは逆に、ろう者も聴者の世界、音声言語を使う人たち、他の障害者のことを知る必要があるように思います。

 

それが結果的に、お互いを理解し合うことができなくても、共存していく一歩になるのではないでしょうか。